がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

若おかみは小学生!感想:生きていくことへの前向きな諦め

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www.waka-okami.jp

 原作を見ていない状態で鑑賞。というより作品の存在自体、この映画で知ったくらいでした。絶賛を聞いてからの鑑賞だったので相当ハードル上がってしまいましたが、それでも面白い映画でした。できるだけネタバレなしで感想。

filmarks.com(filmarksでダラダラ映画の感想綴ってます)

 

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結論:すげえ面白くていっぱい泣いた

 どんな映画でもそうですけど、主人公の人格的成長に説得力が伴っていることと、それが見ている側にとって興味の対象になってると「よい作品」てことでいいと思ってるのですが、この映画では主人公のおっこが、「社会においてこれまでと違う立ち位置になる」点を受け入れる点を、わかりやすく、感動的に持っていけている所が素晴らしいと思います。ご覧になった方はわかると思いますが、あのシーンですよあのシーン。山寺ボイスが絡むあのシーンです。

 複雑さを取り払っていて、伝えるものを明確に睨んでいるところがとても見やすくていいとも思います。「実はこのシーンのここで説明されていた」というような、鑑賞途中に記憶を呼び起こす作業をする必要はほぼなくて、その場面がくれば、ちゃんとその場面を思い起こせるようなファミリー向けの設計で、子供だましじゃないのが素晴らしいです。

 

おっこが受け入れられない冒頭の「できごと」

 例えばですが、おっこは、冒頭で小学生の身に余るできごとに見舞われます。このできごとが「こんなの」とサラっと書いたら、鑑賞してない人にとって結構ノイズになると僕は思ってるので書きませんが(僕は知らないで見て衝撃だったので)、おっこはそのできごとに対して、明確にリアクションをとらないままストーリーが進んでいくんですね。その理由は、おっこが身に起こったことを受け入れられていない、また内部化できていないってことが、生活環境が変わった場所で寝るたびに夢という形で説明されるんです。

 この映画は怪奇現象が発生する世界線であって、おっこの身に起こる不思議なできごと(幽霊や鬼と会話することなど)について、冒頭の「身に余るできごと」と、映画中並列に語られます。おっこがついにその「身に余るできごと」が現実に起こり、これから自分が変化した環境で生きていかざるを得ないことを知って、混乱するシーンが終盤に訪れます。

 なんでもアリに見えた世界と思ったら、観客も小学生のおっこも『やはりこの世界で生きる』という絶望と希望について、おっこの涙から教えられるわけなんですね。

 僕はこの終盤のシーンで、我慢できなくて泣いてしまいました(安い涙)。

 

真月ちゃんへの高感度爆上げ

 僕が登場から心を持っていかれたのは、「ピンフリ」こと真月ちゃんです。エンドロールで水樹奈々が声当ててるの知って「なか卯の件といい、なんか水樹奈々と縁あるな」と思った。

 クラスでは高飛車でプライドが高く、まあ派手に狂った格好をしている真月ちゃんなんですけど、公然で自分の格好を笑われることがあっても、「自分はいいと思っている」という一点でその格好を続けるんですね。「自分はいいと思う」を原資に行動ができる人間って、格好いいんですよ。指摘されて泣くわけでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、周りに流されるわけでもなくて、その格好を続けるという「その人の正義」を示してくれたことがとにかく嬉しくて高感度爆上げだった。

 その上で真月ちゃん、自分の信念からずれたことは一切言わないんです。「こうだ」と思ったことは言う。もちろん、批判されるような接し方もあるんだけども、自分がやるだけやった上で発言するのがとてもたくましかった。おっこが、そんな真月ちゃんからいい影響を受けて人格的な成長を遂げるのも感動的でした。

 

小学生像としてのおっこへは引っかかりがある

 おっこが、若おかみに順応していくまでの速さには、正直ひっかかりがありました。子供らしい反応をする場面もきっちり用意しているんですが、僕は、サービス業従業員が「お客様のため」を心から行うことってのは不可能だと思っておりまして、もっと正確な表現あんじゃないかと思うんですよね。本音と建前と言いますか、そうなってくると、ただただ「言わなくてもいいこと」ってことかもしれませんが。「そのように勘違いしてもらえるポーズのとり方」ってことだと思うんです。

 ましてや、小学生が様々な人間性を持った客に同じ温度でサービスを提供しようとするかっていうと、おっこが抱えている問題(違う環境で生きようとする気持ちを労働への流し込む、というような形)を考慮しても、不自然に見えた。『美談にすべくして美談にした』感はあった。

 全然、気にならないレベルでしたけどね。

 

人外についてのレギュレーションはよくわからなかった

 この幽霊は魔法みたいなの使えたり、鬼は実際にモノが掴めたり、でもこいつは何にも影響与えられなかったり、ルールがわかんなかった。そんなこと気にすんなってことなのかもしれん。

 僕個人の気になってしまう癖なんですけど、こういう「自分にだけは見えるもの・聞こえるもの」と会話をすると大きな独り言になってしまう、という世界観あるじゃないですか。この部分って、現実に置き換えると発生した時点でかなり作り手のご都合主義感強くなって、正直自分はあまり好きじゃないんですね。この映画はとても良くできている面白い映画でしたけど、この点については、既存の映画と同じような雑な処理をしていたと思った。

 例えば「自分だけが見える・会話できる幽霊」がそばにいたとして、腹式呼吸で「あ!ここにいたんだ!」とか「ちょっと窓拭いといて!」みたいな声かけを現実的にはしないと思うんです。たとえ小学生でもね。自分が狂っていると認識されて、排除される可能性を考えると、視線の出し方・声掛けのあり方ってもっと慎重にならんとダメなのではないかなあ。

 

まとめ

 気になるところはありながらも、おっこは、冒頭で失った生活環境が、幽霊や鬼を経て、同級生、ライバル、年上の理解者を得て、幻想ではなく現実に移っていきます。「幽霊や鬼が見えなくなっていく」ということは、小学生にとって過重なできごとに対して、祖母と縁故のあるウリ坊や鈴鬼、真月ちゃんと縁故のある美陽といった、かつてつながっていた者たちの偶然のアシストによって地に足がついていく様を表現していました。

 おっこといわず、僕らは共通して誰かに生かされていて、この人生がまた続いていくことへの、希望だけでなく諦めのような前向きさがこの映画にはあったと思います。ラスト近くでは、「おっこが歳を重ねていったら」みたいなことが少しだけセリフで触れられるんですよね。「ある子供のある出来事でした」で終わらせない、教訓としても深いものを感じました。

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