がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

社会的でない人間が救いとしてパチスロを打つということ

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自分の中で一度整理しておきたい問題だったもんで書こうと思った。パチスロに対する、前向きなものでなくて、『そうならざるを得なかった』というケースと結果について。 

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死ぬほど生きたくないけど死なない人間の苦しみ

人が集まる場所で社会生活を送り、長続きしたためしがない。何かそれを名付けて矯正する必要があるとは思うものの、どうしたらいいのかわからない。

学校もアルバイトも会社も、始めては辞めを繰り返してきた。最後は大体、毎日胃が痛くなり、「辞めたい」以外考えられなくなる。幸いだか不幸にもだか、これを続けることで具体的に問題が起きて全く生活ができなくなったことはない。どれほど辛くても「今日一日自分をごまかす」という能力を伸ばすことに振り切れば、辞めるそのときまで延命することが可能だと知った。多分、わかりやすい結末は「自殺をする」という行動だと思うのだけど、僕は自殺をする前より辛さに耐えられなくなって、その社会からドロップアウトして休む行動を自ら選ぶことができた。

逃げる行動を選択できてしまうと、「病的ではない」と判断される。ラベリングされないわけですな。公にならないから、分析・解決策の打ち出しとその行動は全部自分でやっていかないといけないわけです。

 

行き詰まったときの手段としての「パチスロ」

僕は14歳から学校に行かなくなり、18歳までに高校を3度中退し、アルバイトや習い事の類いを始めては辞めてを繰り返しながら、どんどん歳を食っていく中で、ものすごく焦っておりました。説得力のない話ですが、僕は自分がそうなりたくてなっているのではなくて、疲れて苦しくなり、処理できなくなって辞めているので「このままではいけない」「どうしたらいいだろう」と、とても困ってたのです。

辞めてもまた始めることは、自分にとっていつか慣れていくための訓練であり、希望なわけです。「環境が違えば」「タイミングが違えば」「以前より成長した自分であれば」「画期的な出会いがあれば」、そのたびに希望を見つけ、実際に学び、取り入れ、第一は「この社会で社会的に身を置く方法を見つける」ということを前提に、自分を変えることや、身の回りの変化を試みていったわけです。

そして、疲れてドロップアウトすると、前提が毎回大きく揺らぎます。そして、「今後一生この状態から脱せないなら、人と交流を持たないで暮らしていく方法を考えておく必要があるのではないか」と真剣に考えた結果の一つが「負けないようパチスロを打つ」ということでした。パチンコは、仕様上どう考えても収支が安定しないと思って除外しました。

 

パチスロには確率しかない

パチスロは、「勝てる見込みのある台」を長時間または多くの台数打てば「長い目で見たときに必ず勝てる」というギャンブルです。

勝ちに至るプロセスは本当に単純なのに、これを徹せない人が多いために、負ける人が多く、自分は入り込める要素があると思った。ギャンブルではなく作業として捉えることができれば、誰にでもやれるし、人と喋らなくてもいい。才能はいらない。ただ、そこにいて勝つために必要な行動を取り続ければいいのです。これに気づいたとき、ものすごく救いになったんですよね。

実際に始めてみると、当初、コツがわからずに結構負けたけど、徹することができたら、月単位くらいでは安定して勝つことができました。パチスロには確率しかない。情報と鉄の意志があるだけなのでした(遠隔とかは知らんが)。

僕は、パチスロでお金を稼ごうとする自分のことを全く誇れはしないものの、不安が解消できる手段として発見できたことで、またもう一度社会に向き合う気力を持てたと思っています。

 

ホールで見る「一人」の異様さとソフトな絶望

ホールに来る人は基本的に自分の台に夢中になっていますが、勝つことを目的に来ている一部の人は、金の次に重要となる台やホールの情報を共有するため、大体知り合いを作っています。実際、勝つための最短の手段って、勝てるホールの状況を把握している友人をつくることだと、取り組んでいて思います。

僕は『一人になる』ということを前提にしてホールに行くので、もう何年とちょくちょく顔をだすホールであっても、話をする相手はいません。お互いに顔を認識しているケースでも、声もかけません。声をかけられることがあり、「LINE教えて」みたいな流れができても、決して教えません。

ホールで勝つことを目的にした人たちと比較しても、これを避けている時点で、勝ちから遠い人間になってると思います。例えパチンコ屋ですら、結果を出そうとしたときに、人を適温で利用し合う関係性を築けなければ、不利な勝負を強いられることに落ち込んだ時期もありました。人を避け、一人になりたくて流れ着いた終着地みたいなつもりなのに、やはりその中で人との交流が必要になってくるとは、「なんて生きにくいんだろうか」「この世は地獄だな」と。

珍しい当たりや演出が出て、友人や彼女に報告に行き、ゲラゲラと笑いながらパチスロを打っているお客さんを見ると「何が面白いんかな」と思ってしまいますが、向こうは「人との交流を捨てずに生きる道」がそもそもある状態でパチスロを打つ選択を取っているため、僕とは価値観が全く違うわけです。

 

目指すようなもんではない

設定を掴めば、丸一日その台のレバーを叩き、ボタンを押すだけの作業を繰り返す。設定が掴めているかどうか自体も、様々な要素をみて、自分の不安感と戦いながら押し引きをしなきゃだめで、それでも1を粘ったり6を捨てたりすることがしばしば発生する。

高設定の確信を持って12時間半きっちり打って負けたとき、調子よく勝った記憶は急に薄くなり、「今後ずっとこうかもしれない」「もう自分は何もできないのかもしれない」と嫌なことを考えてしまう。丸一日使って、勝つことはおろか、理屈通りの作業を行った挙げ句に『金が減っている』という残酷な事実は迫力がある。労働では考えられない結果ですよね。自分にとって保険である「一人でもなんとかやれること」の一角にピシっとひびが入ったような気持ちになるわけです。

食生活も乱れる。動かないから運動不足にもなる。話さないことは、僕にとって苦痛ではないけど、きっと身体的に何かを退化させていってるでしょうね。

何も生んでない。何にも貢献していない。

自分は「これでいい」と思えるか、そんなことをせめぎ合う時期もあります。クソみたいに負けている人であっても、ご近所さんや仲間と、負けたことすら楽しそうに「過去経験した娯楽」として話せている姿を見ると、人間が機械的に行動するには、脆くて曖昧な部分が多すぎるといつも思います。

まあそもそも、趣味でやること自体さっぱり人にお勧めできないですけどね。冷静に考えて開始30分で1万円使う娯楽なんか狂ってるよ。

 

続ける中で楽しみも出てくるっていう

もちろん、楽しさや達成感はあります。考えたとおりに動いて、意思を曲げずに打ち続けて出玉につながったときは、それなりに戻ってくる金額もあるわけですし、その金額がそのまま「自分で作った成果」なわけですから。

人と目を合わせず、一度も口を開かず、稼いだ金で好きに外食をして一日を終えることもできる。大人だのう(違う)。

その文化に触れ続けてると楽しみ方もわかってきますし、目押しも多少は上達したりします。愛が無いなりに、その環境で愛を見つけられると思いました。

 

まとめ

パチンコ・パチスロが決して褒められた文化ではないと思いながらも、これに時々縋ってしまい、計算どおりに勝てたときには安心する自分がいます。

僕は、自分がどうやって生きればよいのか考える中で見つけた手段としてやっていますけど、同じような方きっとおられんじゃないかと思ってます。

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