がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

父がアルコール依存だったという話

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news.yahoo.co.jp

 コラムニストの勝谷誠彦さんが肝不全でなくなりましたが、この肝不全はアルコールに拠るところが大きいという情報です。

 僕の父もアルコール依存症だったので、ちょっと書いてみようと思いました。

 さまざまな理由で事実そのまま書くことができないので、少しずつ事実から変えておりますが、大体事実です。

 書かなくてもいいことですが、僕は勝谷誠彦さんに対して何も思うところがありません。

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父に関する思い出(長い)

父の勤務先からの電話

 13年ほど前、僕の父が50歳過ぎの頃、司法書士として個人事務所をやっていたのですが、そこのたった一人の従業員からある日、自宅に電話がかかってきました。

 「所長が出勤してこない日が時々ある」

 「仕事が任せられないくらいミスをしている」

 父はまじめで気の小さい人間で、『仕事にそもそもこない』というのは、かなり異様に聞こえました。父が仕事から逃げたというような話はそれまでの人生で聞いたことはなかったし、プライドの塊のような人でもあったため、母、僕に仕事について何か話すこと自体もありませんでした。時々、『後輩に呼び出されて金だけ出させてなあ』と苦笑いしながら、つまり余裕を持って話せることについて話をすることもありましたが、それでも仕事そのものについては、子供だった僕ら程度でも理解できるような「どこそこの企業にはヤクザが入り込んでてなー」「この間元日本代表の誰々に会ったわー」と、選んだトピックで話をする程度でした。

 従業員によると、父が遅れて出勤したときは酒の匂いがすることがある、と遠慮がちに電話を受けた僕の母に話したそうです。当然、従業員から連絡を入れても、父の携帯電話にはつながらずどうしてよいかわからなくなり、住居の方へ連絡するにいたったようです。

 いろいろな方面から連絡を取り次ぎ、事実をつないだところ、父は個人事務所を運営するストレスに耐えられず、朝どうしても出勤したくなくなり、通勤電車を乗り継いである日は海へ、ある日は神社へ、ある日は映画館、パチンコ屋、そして居酒屋と寄り道をするようになっていったようです。

 父は独立にいたるまで、師匠筋に当たる方の事務所で雇われていました。そこに誰かからのアドバイスが入って独立の野心が芽生えたようでしたが、事務所運営は、顧客とよい関係を継続して、仕事で結果を出し続けるだけで終わるものではなく、リクルートや出て行く金の計算といった、雇われでは手を出すことのない領域を全方位でやらなくてはならないため、父の体質的に向かなかったようです。そして、プライドの高い父は、これに関する相談を誰にも行わず、誰も知ることなくつぶれることになりました。

 結局事務所は解散し、仕事は師匠筋の事務所に移行する形になりました。顧客に迷惑がかからなかったことが不幸中の幸いでした。

父に対するアルコール依存の疑い

 仕事先がなくなった父は、これまで大半仕事をしてすごし、家族と家族らしい会話をしてきたわけでもなかったため、家に居心地の悪さを感じているようでした。元々、たまに平日に休みを取ったとき「ちゃんと働いている人を見ると、自分はこんなことしててええんかって焦んねんなあ」と話すような父だったので、働けていない罪悪感は大きなものだったと思います。その内、朝は出勤するように出かけ、夜帰ってきたら晩酌用に購入していたストックのウィスキーやスコッチを片っ端から飲むようになりました。母や僕は「やることがなくなって、辛いのだろうな」とその様子をしばらく見ていましたが、段々とその酒量が異常であることに気づき、なんらかの疾患を疑い始めました。

 一度医者に見てもらって、必要だったら何かしら治療を受けたほうがいいのでは、と提案すると「自分は医者が嫌いだから」「あんなえらそうな連中は信用できない」と突っ張って一向に受診しようとしません。今思えば、それも自分由来による何かが明らかになることを恐れて、必要以上に医者を悪く言うことで行かない理由をアピールしていたのかもしれませんが。とにかく、頑なに言うことを聞きませんでした。

 そうしている間にも日々ガブガブと飲酒を続け、時々、母や僕にネガティブなことに混ぜて罵倒のようなことを言うことがありました。母はもともと涙もろく、僕がそのときの仕事から帰ってくると、罵倒された恐怖感で小さくなった母がリビングで泣いているという、ドラマのような場面も時々遭遇しました。

金銭感覚がおかしくなっていた

 仕事をやめて数日後、父のクレジットカードの請求が家に届きました。その額は数十万円で、暇つぶしの旅行や映画代もかなりありましたが、大半が居酒屋での支払いでした。母は泣き、父は気まずさから怒鳴ることしかできず、そんな単純なものではないと思いながら、僕は父に対して「ゴミだなこいつ」と思わざるをえませんでした。母はわりかし無駄を切り詰めるタイプではあったため、家の貯蓄で出せない額ではないものの、収入がなく、事務所の整理でそれなりに大金が出て行った家計としては、辛い額でした。直接家計を預かっているわけでもない僕であっても、母がお金のことで頭を抱えているのを初めて見たため、家に入れるお金を増やしました。後から聞くと、母は、母方の実家からお金を借りる形で父のカード請求を賄っていたとのことです。

 カードの請求は当然、使用から1ヶ月程度のラグがあることが多いため、これから長くて2ヶ月くらい、数十万の請求があることになります。同時に、父は事務所をたたむ直前、父のお気に入りの車種であるディアマンテを新車で購入し、そのローンの返済も残っていました。この車の購入については、後から聞くと、仕事に対するモチベーションの低下から「どうしても新車がほしい」と母親の反対を押し切って購入に至ったそうです。車は売って返済に充てました。

 仕事をやめる結構手前から、我慢が効きにくく、自分でお金を管理することが難しくなっていたのかなと感じます。

 僕と母は冷静になって、父と話をしたところ、意外にも現実的に金が払えなくなることを理解していて、財布をこちらで預かることができました。父は、我が父ながら子煩悩であり、家庭を愛していた人だったため、父が酒を飲んでいないタイミングかつ、プライドを刺激しない話し方をすれば、僕らのことを気遣うようなそぶりを見せることもありました。

当人が認められなかった「アルコール依存症」

 時間が経過するごとに「酒にやられた父」との付き合い方を現場でなんとなく学んでいき、父をとうとうアルコール専門外来に受診させることができました。そして、「アルコール依存症」という診断がおりました。

 しかし、酒の抜けた父であっても、この診断を一切認めることはありませんでした。「アルコール依存でなかったらなんなんやろうね」と僕が父に尋ねると「うつ病や」「俺は酒を飲まないでも大丈夫や、いつでも止められる、お前らの指図で止めない」と答えていました。

 父は、確かに医者が嫌いであって、自分よりも下の位置と見ていました。また、僕や母のことも、一切対等に見ていませんでした。対等でない者の意見は受け付けられず、どれだけ細かい意見であっても、父がそれを「自分を支配しようとする意見」とみなせばイラつきをむき出して反対しました。

アダルトチルドレンについて

 アダルトチルドレンという言葉は、一般に「機能不全に陥った家庭で育った子供」という意味合いですが、母の読んだ本や通った自助グループによって、「アルコール依存症者のいる家庭で育った子供」という意味から広がって使用されていることを知りました。子供に限らず、家庭の構成員にアルコール依存症者がいた場合、その周囲は振り回される中でなんらかの病理下にあるとされます。対象者を「ああ、また酒を飲んでるな」と横目に見て気分が落ち込むことがあれば、すでに自身も病気にかかっている、ということだそうです。僕のいた家庭は、殊更振り回されやすい人間がそろっていたように思います。

 そもそもをいえば、僕の家庭内は、気の小さい父がさらに気の小さいその他の家族に対して、気楽に全員にマウントを取れ、仕事をして金を入れることでその存在感を確かに実感できる環境でした。僕たち家族は、その関係性で良しとして、特に疑問を持つことはありませんでした。父には必要以上に父的な、母には必要以上に母的な、子である僕は必要以上に子らしくある振る舞いを、お互いにギリギリと押し引きしながら求めて生活していたように思います。こうなってから、気づいたもんではありますが。

 父は、「家庭において父である」という状況から、絵に描いたような役割以上のことは、面倒くさがって学ぼうとしていなかったように感じます。ストレスなく過ごすための一発目に発見した方法で、それを家族間で揉むことなく、変化させることなく、押し通していました。そして、父にとって不幸なことは、残った2人の家族である僕らも、「家族間における個々人の成長」について、特に主張も考えも持たず、持てなかったため、僕ら家族は家族ごっこのように、その立場を実感できないまま過ごしていました。

 アルコール依存症者が出現するその前から、僕の家庭は機能不全状態であって、僕は特に本来の意味合いであるアダルトチルドレンでした。まあ、この辺の話は本筋とずれるんで割愛。

 そうして起こった、「父が父でなくなる」という状況に、現実的にやってくる問題に加え、「父を家族としてどうケアしていくのか」という方法がよくわかりませんでした。

 父は、家族のためであり、自分のために個人事務所を開き、運営をしていたのだろうと思います。父は無理をしつつ個人事務所を運営させ、従業員と家族を食わせなければならないプレッシャーと戦った末に、おそらくアルコールに依存していきました。それを理解した今であっても、「だからといって怒鳴ったり無茶苦茶金使ったりすんなよ」と純粋に腹が立つ自分がいます。それは、父のありがたみを感じて成長できない、自分という人間の欠陥である気がします。

 含めて、父のアルコール依存は、父の性格、父の職場、家族の性格がかみ合わなかった結果でもあると思っています。僕らこういう状況に陥ったことは、「ついていなかった」ということなのだと思います。

離婚へ

 父は、最後まで自分がアルコールに依存しているということを、少なくとも言葉で認めることはありませんでした。

 母は、アルコール依存に関する本や専門家に話を伺い、自助グループに参加することで、父との付き合いかた、家族の関係性の改善に取り組み、僕もそれに倣いました。

 そして家族が一番健康に過ごすための結論は「離婚」でした。

 父は、その立場を見て母や僕の意見を取り入れることができなくなっているので、父をコントロールしてやろうとすることのすべてが逆効果になります。僕とは母は、父にもう一度元気になってもらいたいという気持ちでした。働いて金稼いでこい、とは思いませんでした。父も馬鹿ではないので、自分がどういう状態かをわかってはいるため、「母や僕の意見によって行動を変える」というプライドに触る部分さえなければ、変わる気があったのだと思います。そして、アルコール依存症の人間に一番いけないのは「酒が入ってるときに何かいうこと」「酒を止めろと直接いうこと」であって、僕ら家族は、父がただ家にいて、何をしようとも、咎めず、褒めず、ただ見守ることしかできませんでした。何か意見を言う必要があるときは、酒の入っていないときに「自分はこう思う」ということだけ伝える。そうやって1年弱の間、父の生活を見守っていました。

 これが、限界を迎えていました。

 僕はともかく、気の小さい母がやるだけやり、金も精神も限界であったと思います。そして、父にとっても見守り続けられる環境としてベターなものではありませんでした。父にとって枷なのは、「家族のためにしなければ」というプレッシャーであって、家族がそばにいること自体でした。それを理解した上であっても、例え父にとって救いになる言葉であっても、僕は「そのままの父でいい」と声をかけることが精神的に不可能でもありました。もちろん母も。アルコール依存症者のいる家庭は、その家庭の他の構成員も健全でいられなくなる、ということを前述しておりますが、人格的に未熟だった僕と母と父は、『健全だった家庭内家計と環境』が壊れていくその間である1年弱に身を置き、疲れきっていました。手にしたものが失われ、見知った安心できる人の人格が変わっていく。その中で、病気を知り、現実的な問題と家庭における根本的な問題に、できるだけ早い結果を求めながらもあせらず、体面を気にしつつ、そして自分の生活を守りつつ前に進めていくには、もう気力体力が残っていませんでした。

 今から10年ほど前、父が50歳半ば辺りに離婚に至りました。

父方の親戚との不和、認識のズレ

 父方の親族の一部からは、間接あるいは直接的に「冷たい」「お前たちの対応が悪かった」と離婚後に言われました。お前たちがもう少し優しければ、温かみのある人間であれば、と陰で言われ、父がアルコール依存症であることを決して認めませんでした。父をアルコール依存症者として扱ったとき、烈火の如く怒鳴られました。仲のよい身内が依存症者として扱われることは親族にとって認めがたいことだったんでしょう。僕は怒鳴られた直後、さまざまなことを考え、その場で「父はアルコール依存ではありませんでした、すいませんでした、もう二度と類することは言いません」と頭を下げました。親戚の気が収まるのを待ってその場を離れましたが、僕は腹が立って悔しくて、道端に座り込んで動けなくなりました。以降、その親戚とは表面上話をしますが、心の底から嫌っています。

 どう考えても、父はアルコール依存症であったし、僕らは家族として、お互いのために離婚という選択肢以外よい方法が見つかりませんでした。親戚にとっては、確かに冷たい対応に見えたのでしょう。「所詮他人だからおたくは」と母について話しているのを聞きました。それでも、父方の親戚から罵倒を食らったとき「この焦り・苦しみ・怒りを味わってないくせに好きなこと抜かすな」と殺意を感じました。親戚は決して冷たい人間ではなく、家族愛のあるまっすぐな人で、社会において有用な方だと思っています。皮肉とかそんなんじゃなくて。そんな人だからこそ、僕ら家族の出した「離婚」という結論が許せなく見えるのが「アルコール依存症」という病気の恐ろしいところだと思いました。

 暖かさがあれば、やさしさがあれば、籍を入れた人間が、血のつながった人間が、人格的に崩壊していくことを見守ることができたとは思えないのです。そして、その説明が激しく面倒くさかったのでした。

離婚後の父

 離婚した父はその後、父方の実家に引き取られました。仕事は、個人事務所を開く前勤めていた師匠筋の事務所に雇ってもらったようですが、軽い認知症のような症状、手足のしびれ、我慢がしにくい性格へと変化したこと、異様な偏食で虚弱体質になったため、以前のような働き方はできず、お情けで雇われている状態でした。仕事のミスの数や、数百メートルの移動にタクシーを使うなど、性格や仕事の精度の変化に同僚の方が戸惑っていたそうです。

 父と僕は、年に数度会って話しましたが、離婚前の数ヶ月から別居して以降も、父の前で「酒」という単語を口にしませんでした。父からも、個人事務所を止めてからの話、現在の仕事の話、「酒」という単語は一切出てきませんでした。

 師匠筋の関係者にお話を伺う機会があると、「自分の前では飲まないが、一人になったときに酒を飲んでいるようだ」という話を聞きました。駅前で飲んでいるところを知り合いに見られることもありました。そんな話を聞くたびに、僕はひどく落ち込みました。

 父は自分でお金の管理ができなくなってしまったために、元妻となってしまった母は、給料を出している師匠と事情を話して打ち合わせ、母がお金の管理をするようにしました。父には総支給額の半分以下、それも父の年齢とキャリアにして破格の安さの給料の一部を自由にできるようにして生活してもらっていましたが、父が自分の手に渡る給料が少ないことについて、何か不満を言ったか、どう理解していたのか、当然僕から聞けませんでした。父はおそらく、僕が子として「子らしく、親の手の内にあってほしい」と望んでいるようだったので、僕は最後までまるで何も知らないかのように、何も考えていないかのように父と内容のない話を繰り返しました。

 ある日、父は実家の階段から落ちて脊髄を損傷して首から下が動かなくなりました。回復の見込みなく、療養病棟に入り、3年後肺炎を起こして死にました。2年前のことで、父は64歳でした。

 晩年の父は、認知症をやんわりと進行させ、祖母、父にとっての実母が作る食事はほとんど口にせず、毎日具のないインスタントラーメンを食べたり、外食で好きなものばかりたべ、こっそりと酒を飲んでいたようでした。子どもに帰っているように見えました。僕と話すときは、偉大な父であろうとしたのか、最近のテレビの話題や地域の話題に対して、大上段から切り捨てるようなことを話して笑っていました。僕は僕で、そんな話に愛想笑いをしたり、最近の自分の仕事について話しました。

 療養病棟に入ってから死ぬ直前までの父は、一気に認知能力が死に、30歳を超えた僕を見て「16歳になったか」と言ったり、オムツの中に出した大便を見て「猫が入ってきてウンコしよんねん」と言ったり、完全な見当識障害でした。見た目は80歳くらいに脂が落ちてやせこけていました。まあ、60歳半ばで「今後ずっと体が動かず、おそらくこの病院で死ぬ」ということを冷静に理解しなくていいのは、父にとって救いのような気がしました。

 父が階段から落ちた原因は、今となってはわかりません。父が入院に至ったとき、「父が1Fで過ごしていれば」「離婚しなければ」とかチラっと考えましたが、あのときの僕らは、離婚以外の選択肢がありませんでした。

 脊髄損傷の症状が固定化してからの2年9ヶ月、「まあ近いうち死ぬやろな」と冷静に受け止め、そのときが来るまでさまざまなことをやってきました。

死んだらまあいろいろ思うわけですよ

 父がいつまで経っても酒のことや仕事のことを口にせず、強い父であろうと虚勢を張り続けることについて、複雑な思いを抱いていたこともあり、特に死ぬ直前、3日に一回の見舞いに行くたびに症状の変化する父をみて「ぼちぼちか」と、さらに冷静に受け止めていました。早朝に病院から電話がなったときも「今日ね、なるほど」と思いました。しかし、実際に死んだ父を目にすると、わかっていたこととは別に、涙が出ました。悲しいとか悔しいとかも、あんまりわからず。僕は結構自分の考えを日本語に変えるのができるタイプの人間だと思っていたのですが、あの時、死んだ父を見て流れた涙が何だったのかは、未だに説明がつきません。「父を失って悲しい」でも「自分の無力さが悔しい」でもなかった。

 なぜなら、どうしようもなかったので。一部の隙もなく。

 父のついてなさに同情するような気持ちだったのかもしれません。

まとめ:お酒こわいよブルブル

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 ともかくまあ、僕の「身内アルコール依存症体験記」は「当事者が死ぬ」って形で落ち着きましたが、アルコール依存は、当人と周囲の人間の生活環境を思った以上の速度でムチャクチャにしていきます。そして、メインアイテムであるアルコールは、100円でスーパーに売ってます。

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 つい最近、「酒は少量でも毒」という研究結果が明らかになっておりますが、こういう経験があった僕からすると「そらそうだろ」と思いました。毒ですよ。どう考えたって。酒は、飲みたい人が飲むために言い訳しまくって「少量だったら体にいい」とか言い出して、飲みたい人が飲むために「そうそう」と同意が集まって定着してるわけですが、処理については肝臓に負担をかけ、処理後に毒を出し、酩酊することで二次的な被害を出す可能性もあった上、上記の記事で飲むにおいて身体的なメリットはないと出てしまっております。

 メリットは「酔う」という状態の捉え方くらいですかね。それが楽しいって人もいるでしょうし、酔ってなければ進まない話もあるかもしれない。個人的には「何じゃそれ」と思いますが。酒を飲むこと自体は、水を飲む行動と変わらんから、結局酔って何をするのかってことが人によって重要なんでしょう。

 別にね、だからって「この世から酒なくなれ」とかは思ってないですよ。

 その場から逃げ出したい人間にとって、会社休むより入院するより麻薬買うよりも、酒を買うという選択肢があがりやすいことは「危険だな」と思うわけですよ。

 父は多分、麻薬があったら麻薬に手を出してたと思います。でも、高いしルート知らんし犯罪だから、やってなかった。酒は簡単に手に入ったんで、飲み続けただけです。毎日飲んでも、財布に小銭さえ入ってたら手に入った。カードを使えるところで簡単に酒が買えた。依存するものが酒でなかったら、もうちょい父は晩年マシな人生だったかなあと思うところです。

 ちなみに僕は、酒は年に一回くらい飲みます。僕は、きっと酒に依存する人間だと思うので、怖さを感じています。母は、一切飲まなくなりました。

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 勝谷さんの近しい方が書いたこの記事を読んで「あーこんな感じだったなあ」と、父をぶん殴りたかった懐かしい気持ちが蘇りました。