がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

お前は死ぬまで誰かとつながっている、と脅されるの巻

 先日親類が死にました。どういった親類かはわかりませぬ。母方の祖父が関係してる方であって、パワーバランス的に頭の上がらない人である、ということを葬式が終わってから聞いただけなのでした。実際、法事の際現れるレアキャラ程度の認識であって、「どうやら家系図に医者が山ほどいる金持ちらしい」ということくらいは知っていました。

 

 僕は御存知の通り、天下無敵の無職おじさんであるために、普段は僕の予定というよりはホールの予定に準じて朝起きたり起きなかったりして、結果的には労働やってる時代よりも忙しくも稼げなく、かつサバイブしている実感を持っている状態でして、はっきりいって全く人とのつながりがないわけですね。それがとても助かっております。

 ところが、突然「親戚が死んだ(=法事に出ろや)」と連絡がきたために、自分は一人では生きられないということを改めて知らされる羽目になりました。一人では生きられない、というよりは、人の間に挟まって形を留めているだけの存在なのであるなあ、と。

 

 僕が音の鳴るような無職への身をやつしてることをご報告している人の一部からは、「たまには人と会ったりしているのか」や「人と会いたいときとかあるだろう」といった言葉をかけていただくこともあるわけでありまして、その時つくづくと「ああ、人って普通そういうもんなのだなあ」と思います。

 僕もロボットじゃございませんので、『もしかしたら…これが…ナミダ…』みたいなはっとする瞬間がなくもないんですけども、それは人に会いたくなる気持ちというよりは、人を恋しくなる瞬間に理解が及ばなくなる不安感と言いますか、かろうじて分かる状態を保ちながら生きていたいと心から思うものの、「日常的に人と交流して生活すると死ぬのがわかってるので、それはそれとして勘弁」程度のものです。それについて深刻に考えてもおらず、深刻に受け取れないことにヤバさを感じている次第です。なんの話だったっけ。

 とにかくまあ、一人で決めて一人で行動して、それについての不安感で死にたくなることはしょっちゅうあるが、だからつって他に選択肢がなかったんだからしゃあないよな、と前向きにギロチン台に首を置いている状態なわけです。それなりに満足しています。

 

 それが、「よくわからん親類の死」というイベントごとによって、自分のツラを出さなければ誰かのツラが潰れる(なぜかはよくわからない)、という重みを突きつけられたわけです。この「(なぜかはよくわからない)」っていうのが結構肝で、如何にも、親の中出しでシャッキリポン誕生した八木ボウイという、登場人物3人で完結するのではなく、語源としての『人間』が知識じゃなく体感として現れた気がしませんかね、どうですかね。まあ、日本的血縁や恥の文化も入り混じっているのだろうが、バタフライ・エフェクトの結果として八木がいる、ということですよ。

 少し前、ジョージアのCMで「誰かの仕事のおかげで生活できる」みたいなのがありましたが、そういうことなんですよね。ありがたいとかありがたくないじゃなくて、何かが影響して偶然今生きているっていうだけ。

 

 それを突然知らされることになりまして、僕はそっから数日落ち込みました。

 こうやって突然やってくる落ち込みって、原因をすぐ忘れるくらい落ち込むんですけど、今回覚えてたんで書いて置こうと思いました。

 

 今僕は、とにかく社会的であることから逃れたくって、おそらく『ただ生きている』という状態に対して発生するすべての責任を放棄している状態だと思います。

 でも、葬式で、顔の知っている親類は、死んだ90歳の母親が如何に自分を大事に育て、周囲に愛される人物であったかを堂々とお話していました。横には、同じく略礼服を着た妻を連れていました。その方も夫婦ともに医者でした。弔問に来た人にはにこやかに挨拶をしていました。

 僕は、こういったことから逃げて、逃げてきたことに覚悟して、理解しながら一人で死ぬしかないと思っていたわけですが、「やっぱり、逃げるわけにはいかんのかな」「となったら、積み上がった宿題を前に吐きながら泣きながらそれを消化しながら死ななきゃいけないのかな」と恐ろしさで身が竦んだのでした。僕は、僕のことだけ小さく考えて死ぬわけにはいかないのか。

 もう一度、何かを始めなきゃならんのかなー、とカタカタ震えているのでした。