がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

犯罪者にならないでおこうとすることは犯罪者に程近いの巻

 ニュースなんかで時折、親から虐待を受けて死んだ子どもの話であったり、どこぞの家に強盗が現れて殺人をしたであったりといった、見てられないような悲しい事件が発生しております。

 僕はいつも、その事件を目にすると「それは俺がやったのではないだろうか」という不安に駆られます。もう、ずっとそうなんですけど、みなさんはどうだい。

 

 別にこれは「このような犯罪を生んだ社会の一員として、責任を感じるべきなのではなかろうか」といった、世の中を遠大に捉えた美しい認識とかではなくてですね、単純に「俺がその人を直接殺してしまった犯人なのでは?」という揺さぶりを受けるという意味でございます。

 そしてニュースを続けて見ながら、「俺は大阪に住んでおり、事件は神奈川で起こっているようなので、現場にはいなかった、なので、状況的に俺がこの人を殺してしまった可能性はゼロに近いな」と考えることで落ち着きをえます。僕が『無職キモキモおじさん』という誇るべきファニーな肩書から、『殺人犯』という力強く筆文字で書かれた肩書に変わることがないことが確認されたということですね。誇ってはいない。

 

 僕は普段より、そしておそらく人以上に、犯罪をしないということに意識的であるような気がします。ゆえに、人よりわずかに品行方正であろうとしているとも思っています。比べたことないからわからんが。それは、攻撃が最大の防御という考え方と同様に、「品行方正である人間が犯罪に近くない」というイメージを自分と周囲に植え付けているのだと思います。

 そして、この考え方というのは、とても犯罪を犯す人間に近いとも思います。

 

 ニュースを見ながら「犯罪者は俺ではないのか」と自分で真剣に疑ってしまうのは、僕には犯罪を犯した記憶が全くないからです。覚えていないことをもし、周囲から指摘されたときに「知らない/覚えてない」以上にふさわしい言葉を出すことができませんし、僕は多分簡単に、自分で自分に「やったのかな?」と思い込ませてしまいます。証拠も記憶もなく、その犯罪が自分で行ったということを周囲によって指摘されたら、僕はもう終わりだと思います。僕は、ほぼ犯罪者だと思います。現時点でも。

 ここまで書いた時点で、自分でもそうだし、もし読んだ人がいても「あれこいつなんか犯罪一つ二つやってんじゃね」的なイメージ持つと思います。僕は、それを強く否定できません。犯罪をやった記憶が一つもないからです。

 最近深夜に運動がてら散歩しつつラジオや音楽を聞くのですが、周囲は治安もよく、夜中であろうと女性が一人でときどきうろついています。そのとき僕は「あー助かった!」ってものすごく安心します。

 何が助かったかというと「俺が強姦魔じゃなくて助かった!」ということです。

 僕が異常性欲者で常習の強姦魔だったら、多分、僕の住むベッドタウンで、夜中で独り歩きする女性に対して良くないことを考えている可能性があるわけですが、僕は性欲スカンピン非強姦魔だったので、あの女性が傷ついたり悲しんだりすることはないし、僕も犯罪者として捕まることがないわけです。よって「あー助かった!」なのです。

 普通の人間はそういう発想をそもそもしないのかもしれないのですが、僕は、僕の日常生活を、僕が理性的に犯罪を侵さないという方向に舵を切っていることが守ることができたという、本当にささやかな達成感を感じます。

 

 似た感じで、僕の毎日は「今日自殺などで人生を終わらせない」ということを朝や夜に選択し続けることで続いているところがあります。

 

 そして、こういう考え方が健康的なのか不健康的なのかまるでわかりません。僕はいつも余裕を持って犯罪を犯さない生活をしているので、切羽詰まってることはないんですけど、こうやって言葉にすることで、『そうでない』人たち(がどのくらい割合で存在するのかも想像つかんが)与える必要のない恐怖感とか不安感を与えるのだろうなあ、くらいは想像するところなのでした。

 多分なんだが、こういうことに毎日わずかずつ神経を配るのって、生活に結構なコストになってると思うんだけど、脱し方がわかんないので生きるのが面倒です。