がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

人を気にしすぎないのではなく人の何かが見えすぎているだけなのでは

 自分は「人からどう見られているのか」というのが気になる人間だと思っております。おりました。どっちか迷う。

 いえ、まあ実際のところですね、僕が通いたくもない学校に通ったり会社員になったりしてみたのは、「人たるものそんなもんなんだろう」という、『人モデル』のようなものを見ていたからでありまして、とりあえずそこに至らない自分は目指すべきもんなんだろうと思っていたわけです。今も結構思ってます。

 これを、例えばポップソングであったり、一部の人生の旅人(うまい書き方がわからん)であったりが「あなたは固有のあなたなのさ」「思ったように生きるがいいさ」というような甘言をアドバイスとして差し出してきたりするわけなんですよね。そして、その言葉の中には一定の正しさがあると僕は思っています。確信もしてます。実際にそうなんだろうと思っています。

 急に話が逸れますが、イチローが引退する際の記者会見(見てない)で「自分は自分以上になれない」というような発言をされたそうですが、僕は24歳のころ、就職活動している頃に「あなたは人生において何を大切にしていますか」と面接官に質問され、「無理をしないことです」「理由は」「自分は自分以上になれないので、無理をしないでやれることをやるのが大切だと思っています」と答えたことがあるのを急に思い出しました。何、イチローちゃんまだそこなの?おつかれさん。結構打ってたね君ね。

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 とにかくまあ、僕は僕の持つ「人モデル」と僕にとって甘言となる救いの言葉の数々「思ったように生きればいい」の間で常に揺れながら、そして連日半ギレになりながら、努力を続けてきた(つもり)なのでした。今破綻中。

 何に半ギレになるかと申しますと、僕が「思ったように生きる」ことを目指した場合、実際的に死ぬことになるからです。稼ぎが発生しない。メシ食えない。ガリガリになる。アバラが浮いて腹だけ出てきて地獄の餓鬼みたいになる。地獄っぽい奴だから石を投げられる。脳漿が出る。脳漿を仕舞う。仕舞うけど漏れて死ぬ。そういった流れになったときに思うわけです。

 「ハハア、甘言を漏らしてる連中は、俺というケースを知らんのだな」と。生命エネルギーに溢れた連中は、金や異性や名声やモノやコミュニケーションへの欲求が爆発している人間は、「たとえ食えなくなったってその道を目指せ」と誰かに声をかければ、その道を目指し続けるための生命力を生きていくことに向けられる人が全員または大多数を占めると思ってやがんだな、と。売れなくたってバイトしながら芸人すりゃいいじゃない、好きだったらさ、とおっしゃっている。ただ生きていることがつらい人間に出す言葉ってないんだなと気づくわけです。

 

 そうなりますと、人の言葉をあまり当てにせず、自分と自分から見た他人との比較によって「自分がギリ生きていくのに納得できる形」のようなものを延々と探ってモデルを作って崩して、という作業を繰り返すことになるのですが、その先って「人の目を死ぬほど気になる自分」がどんどん先鋭化されていくのみなんですね。

 なんせ参考がないから。「生きている他人」と「生きている自分」に大きく開いた溝をどのくらい妥協して埋めるかしかないわけです。腰の痛そうな高齢者がいれば、席を譲るのがベターとされ、別にそれが僕にとって苦ではないから「じゃあベターなことしとくか」という感覚で席を譲るわけです。僕という人格は多分、こういうものの集合体なんだと思います。すべて、他人と他人の規範を見ながら積み上げていったと思ってます。

 当たり前ですが、この生き方には限界がありますので、今はこの積み上げて内部化しようとしてきた自分の社会的であることを再構築するタイミングに入っています。ほんま、何かいているのかわからなくなってきた。

 結局は「俺は俺以上になれない」ってことだと思いますわ。イチローやるやんけ。

 

 再構築する中でふと気づいたというか、実際そうだとしても気づきたくなかった最近の考え事なんですが。

 僕は、他人と他人の規範を見ながら、自分の社会性や人格をなんとかだまして操れないかとうんざりする期間試す中で、「人の目を気にしすぎる人間になってしまった、あるいはずっとそうであって更に強化されてしまったなあ」「これを修正していかんとなあ」と考えるようになっていたのですが、実際のところ「人の目が人よりも病的に見えすぎているだけなのではないか」と思ったのでした。

 人の目っていうと、自分への注目と訳されかねないから書き換えると、「他人の規範が自分の脳内ですぐ情報として処理されすぎなのでは」と思いました。

 

 と、言いますのもですね、僕は自分のファッションとかにあまり興味がないのですが、「これは着たくない」ってものだけははっきりしてたりするし、他人が来ている衣服とかはすぐ注目したりするんですよ。そして、「これを着てるってことはこういう人なんだろうか」とか、「こういう顔はこういうタイプじゃなかろうか」とか、すぐに考えて、考えたあとその答えをどっかに探してしまったりするのです。多分、他人が興味のない領域くらいまで、一人で考えているような気がします。しかも『無意識で』ってことじゃなく、結構意識的にやっているような気がします。

 当然「全然違った」ということも多くあるのですが、人と交流の少ない僕のような人間でも、35年生きればそれなりにサンプルも集まってきまして、わからんケースを「わからん」と放置して、サンプルのある固いケースに対して「多分こういう規範を持っている」と決めつける力(いらん力)が結構ついているんですよね。

 

 先日治験など参加いたしましたが、合計十人以上参加したその中で「絶対に参考にしたくない規範を持つタイプ」みたいなのも出てくるわけですよ。僕はそのある人が行動するたびに「こいつ多分このタイプだな」と思ったら「やっぱそうだった」ってケースを何回も見まして、その回数ごとにヘイトを濃くしていってました。

 ただ、周囲は別に普通なんですよね。多分、気にしてたのは僕だけで。

 僕だけが見えていたものだったような気がします。人の規範がすぐに情報になっていただけだったような。

 

 ある人の行動を見て「うわー、この先タイプ的に絶対こうなるやんか、と思ったらなった」っていうのってすげえストレスじゃないですか。「だから言ったよな!俺!」って言ったり思ったりするのってすげえストレスじゃないですか。その先には「こいつはその人生で学習しなかったし指摘されても直らなかった、そういうタイプだった」というイメージが残る。

 さらにその先に「学習しないことがあるのは、人の個性だからいいのだ、俺が勝手にイラついただけだ」と落ち着ける作業に入る。

 「こんなにイラついているのは俺だけで、俺の頭がおかしいだけだ、実際周囲に気にした人はいない」と自分を軽く火であぶって、自分の修正を試みる。

 このサイクルが、人よりも多い。

 

 じゃあ今後の人生どうしたらいいの、っていうのはまた今後の宿題にさしてもらってよろしいでしょうか(尻切れ)。