がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

映画「グリーンブック」感想

 

 

アカデミー賞ってことは説教されるんですかね(危惧)

 「アカデミー賞」ってだけで、さぞおりこうな映画なんだろうなあと思っていた(そして興味が無かった)のだが「タイミングが合った」という理由だけで鑑賞。アメリカのある年代の、黒人差別に関する事実を、ミュージシャンとマネージャーの関係性を通して描きながら…といった感じ。

 もうそういうの千本作ってるんで間に合ってますよ、あとそれを評価するノリも擦り過ぎの領域ですよ、という、ただ映画を運ばれてくる料理としてぼんやり口に入れるだけの一個人として、素直な感想が出そうになってぐっと飲み込んでしまうのは、僕が超絶島国である生粋の日本人であるからなんでしょうな。と、いいつつも、どうやらアメリカにおけるリベラルってのはセレブの嗜みとして空中戦と捉えられているのも一定の真実であると確信しておりまして、現に大統領さんが国粋を打ち出して当選しているところからもわかるといえます。前段が長い。

 つまり、わざわざ過去の熾烈だった時代を取り出してきて、右も左も持ってる現代病たる差別に関するアレルギーを喚起させるそのお遊び自体「うるせえ」と呑気な島国から呑気な言葉が漏れそうでした。

 

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黒人は「黒人」という人間ではない

 でもこれ、とても面白い映画でした。

 冒頭、かなりわかりやすい場面から入っておりまして、主人公のトニーが、自宅にやってきた黒人の清掃業者が使ったコップをしかめっ面でゴミ箱に捨てる場面があります。つまりまあ、この映画は「そういう要素を含む」という記号的な場面でありながら「こういうのばっかりで今更終わんないよ」というけん制にもなっていると思いました。さすがに、その辺の教訓は世間で聞きすぎてるし、賞を与える意義もないでしょうしね。

 この映画は、イタリア系移民の血を引きながら、白人としての扱いと教育程度と収入が一定以下であるトニーと、アフリカ系黒人でありながら高い教育を受けて音楽にその身を捧げ、時代ながらパブリックイメージとしての黒人扱いを受けているドン・シャーリーの、とてもパーソナルな二人の関係性についての話です。

 話が進めば進むほど、社会として、ルールとして、クラスタとして人間を捉えてコントロールしたとしても、そこにいるのは「代わりのいないたった一人の人間である」ということが浮かび上がってきます。

 この映画では、ある時代のアメリカ社会で、ピアニストとしてVIP待遇を受けていたとして、「黒人は白人と同じように生活できない」という場面が数多く描かれているわけですが、例えばシャーリーにすれば、高い教育を受けてマネージャーを伴った車の旅をする程度には、黒人社会からも浮いているという場面も描かれます。

 そして同じようにトニーは、肌の白さから白人としての自由を享受しながらも、その名前が発音しにくいだとか、職業も収入も安定しないだとか、アメリカ社会における生きにくさを同等に受ける存在として描かれています。

 

ストーリーと共に、個人は個人であることに価値があると教えられる

 シャーリーの生きづらさが見た目的にも制度的にもピックアップされてわかりやすくなっているものの、メインの二人は全く同じように、この社会で「この手の人間てのはこんなもんだろう」という思い込みに捕らわれて生きていました。

 と、なったときに、結局人間関係において重要なことって「俺はこいつをどう思ったか」という、パーソナリティの掴み合いだけだということが、話が進むたびにわかってくるんですね。

 例えば、素晴らしいピアノの演奏技術に感動する気持ちとか、フライドチキンをおいしそうに食べる姿とか、妻に手紙を書く姿や、それを手伝いたいと思う気持ちとか、綴られるロマンチックな文章とか、それを学んで自分なりに綴る様子だとか。部屋で一人で酒を飲む姿とか。言われた通り、スタインウェイをブッカーに準備させることとか。そういう、個人のある側面を見て、お互いそれを認識して、少しずつその関係性が熟していく様子がとても丁寧な筆致で、映画的な感動が詰まっていると思いました。

 最後は、その人がどのような人であって、自分がどう受け止めるかだけであり、その先にはすばらしい友情が待っていることもある、ということを、ラストにシャーリーが見せた少しの勇気で学ぶことができました(泣いた)。

 ということで、とても面白かったです。