がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

寄り道中毒だったという話

 小学校の頃受験をいたしまして、家から大阪市内にある私立の中高一貫校に通う運びとなりました。家からは最寄り駅から30分間一本道の電車に揺られ、通学いたします。

 僕は今に引き続きというかなんというか、「自分がなぜそれをするか」ということを考えることが苦手でした。全く言葉が足りてない。人や社会から半分以上強制されてすることのおおよそすべて、なぜそれをするのかよくわかっていませんでした。学校になぜ通うのかわかっていなかったし、七五三の頃は「これを着なさい」と渡された子供用ブレザーにどういう意味があるのかわかってなかったし、中学受験をしたにも関わらず、中学受験が何を意味するのかもさっぱりわかりませんでした。ただ、「塾に行け」「それは私立の中学に行くためだ」と親に言われ「そうなんすね」と返事した結果として、自分は私立の中学に通い始めたのでした。

 勉強については、やはりそれが何を意味するのかさっぱりわかっていなかったものの、現場でなんとなくうっちゃる能力があったため、成績についてはそれなりにキープしていたのがまた、タチ悪かったです。

 そうするとどうなるのかと言いますと、突然通い始めた新たな環境に「なんか変だな」という反応があっても、それが「学校に行きたくないという自分の気持ちである」ということもよくわかりませんでした。

 

 そんなわけで僕は、学校を終えるとなんだかイヤな疲れを抱えて、また定期券を擦って電車に乗るという生活を送る中で、毎日どこかで途中下車をする生活を開始しました。

 それは、今にして思いますと、「自分はイヤな学校というものを越えて、この寄り道をするために一日を開始したのだ」と思うことで、気持ちを落ち着ける効果があったのだと思います。

 特に何か当てがあって途中下車するわけではないので、とりあえず僕は、下車した駅の一番近くにある本屋に立ち寄り、立ち読みをしてからまた帰るようになりました。見知らぬ駅に降りて、何となく栄えている方向に歩き始め、その帰り道を気にしながら適当に本屋を見つけ、何か立ち読みをしてまた元の駅に向かうその間は、とにかくやることがあって、それを完遂することに集中できました。

 家に帰る道すがらに、『ああ、自分は今日これをするために朝起きたんだ』『嫌な学校を越えないとこれができなかったから、朝ちゃんと起きて出かけたのは間違いじゃなかったんだ』と思えて、少し気持ちが落ち着いたのを覚えています。

 学校にはそれなりに話す相手もいたような記憶がありますが、その友人たちが、学校近くのゲームセンターで何を遊んだとか、マクドで何を食ったとか、どこでエロ本を拾ったとか、誰の家に寄ったら何が置いてあったとか、先輩がナンパしたとか彼女がブスだったとかいう話をしていたとしても、僕はあまり興味を持てませんでした。彼らと気持ちを通じ合わせる気が無かったというか、自分にはそもそもそのチャンネルがぶっ壊れていたのだと思います。

 僕はとにかく、定期券で、家から学校までの駅の一つ一つ、一人でその周辺の本屋をマッピングしていく方が楽しかったです。

 

 たまに学校や家の用事で、知らない駅周辺のマッピングをする時間がなく、ただまっすぐに家に帰るということがありました。そういうとき、『俺の一日は一体何だったんだろう』とイライラすると同時に泣きたい気分になりました。その日一日、何の意味もないように感じていました。『用事』を作り出した組織や人に対して、ピュアな殺意を感じていたように思います。中毒状態でした。

 全ての駅の周辺の本屋を探索し終えたあと、お菓子屋さん、古本屋さんなどの探す店の幅を与えていき、ゲームセンターを探すようになりました。そして、ゲームセンターは、金を入れさえすれば、そこで座っていられる権利があることがわかって、ただなんとなく、情熱もなく、シューティングゲームや格闘ゲームのCPU戦をやっていて、ゲームセンターが好きになったという記憶があります。

 ほかの人が社会的に何か活動をし、その結果がどうたらという話を耳にするたびに、「それをやっていない自分は人としてダメなんだろうか」という焦りを感じましたが、そもそも、そういう社会的な場である学校やそこに所属する連中全般への嫌悪感が日増しに強くなって、僕は、とうとう通学用定期券を持っているだけで、学校には行かないただの児童となりました。

 

 定期券は半年分購入していたので、ある程度の額返金が可能だったのですが、僕は黙ってそれを使用し、学校には行かず、その定期券を使って一人で各駅に降り、ただフラフラとしていました。まあ、親は何か気づいていたのかもしれませんが。

 一人で町を歩いていますと、誰かの目にはただの風景のパーツとして自分が映っているということを想像して、とても居心地が良かったです。誰にもその存在を気に留められないという形で、フラフラしている自分を認められたような気がしたのでした。

 今、現実の僕は、どんどんその存在が薄くなっていくような気がしていて、それがとても心地よく、自分は14歳から、ただ老けた14歳なのだなあと最近思ったのでした。