がんばらないTURBO

元不登校かつ人苦手マンなもんで、大体うらみごとと考えごとをしている。そしてブログにまとめる。音楽、お笑い、e-Sports、本、投資、うすぼんやりした美術鑑賞。

ジャルジャルのネタにみる「漫才における話し手の人格設定」

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 M-1、激烈面白かったですね(2週遅れ)。最高。ゲロマブ。

 ちょっと前のエントリーで3回戦と準々決勝のネタについて気になって調べたりしていたのですけども、予選でもかけていたジャルジャルの「国名分けっこ」は僕も見た時すごく驚きまして、いろいろと思うところあったんですよ。

 僕、このネタ見ながらダイアンの「寿司」っていうもう結構クラシックなネタを思い出しておりました。西澤が『寿司』というものを知らないということが発覚したので津田が寿司について説明する、という内容です。バリエーションもあったと思うけど覚えておりません。

 

 僕、漫才を見るときに、演者が陥りがちな罠として「大喜利の羅列になってないか」っていうのを気にしてしまうんですよね。それがすべてとは言わないんですけど、結局目の前の二人が「何考えている奴か」というものが見えてるか否か、その場限りの背景の分厚さをどのくらい提示できるかが、わりかし面白さそのものに直結していると思うわけなのです。「面白い発想の羅列」にはそれぞれのつながりが生まれにくいので、爆発的な面白さも生まれにくいと思います。

 例えばオードリーのようなキャラものの漫才があったとき、春日が本来どのような人間かをバラエティの立ち振る舞い時から消すことで、漫才時に狂っていることを説得力を持たせられているわけじゃないですか。

 出だしのインディアンスは、ボケの田渕が兵庫出身なのにばりばり標準語でやってた時期があったんですけど、今は関西弁になっています。ご本人らがどういう意図で切り替えに至ったのかさっぱりわかりませんが、僕は、センターマイクのないところで関西弁になったり標準語になったり不安定だった田渕を見て、「関西弁で漫才したらいいのに」と思っていたので、変わった時は個人的にとてもほっとしました。以降、安心してインディアンスの漫才を鑑賞しております。

 ダイアンの「寿司」は、当時結構なヒットネタで、テレビでえらいやってました。僕もすんごい笑っていたんですけど、強い違和感があって、どっちかというと違和感のほうが大きくて印象的になってしまってたんですよ。

 と、いいますのも、30を超えた日本人が「寿司を知らない」という前提は、あまりに「面白さに結び付けるのに都合が良すぎる設定」であったからです。通常考えて、「西澤が寿司というものを知らない」というのは、漫才における明確な嘘であるといえます。ていうかネタ書いてるんが西澤やねんから当然ですわな。

 『当然ですわな』って鼻息出しながら書くようなことじゃねえよクソが、と自分でも書いていて思うのですが、僕にとってはこれちゃんと指摘せんと気持ち悪いんですよ。例えば「彼女いないんですけど、どうやったら見つかるでしょうか」という入りの漫才があったとして、例え発言者に現在彼女がおろうが、実際は妻帯者であることを隠していようが、見る側にとって知らなけらば受け入れやすい前提だと思うんですよね。発言者について、多くはそのプライベートを知らんので。ところがもし発言者が「3日前に週刊誌に有名女優とデートしていたところをスクープされ、のちの記者会見で交際宣言をしていた」としたら、この漫才の入りは成立しなくなります。『おるのになー』と思いながら見なきゃいけないので、しばらくの間は「彼女いない」という導入の漫才は避けたほうがベターだと思うわけです。ノイズが入って、単純にウケの量が減ると予想できます。

 

 千鳥の漫才「泥棒田泥男(タイトル適当)」に、「大悟がコンパに行った」というくだりがありますが、「わし結婚しとるんやけど何を言ってんのやろうね」とエクスキューズを足すバージョンをテレビで見たことがありました。上記の現バージョンにはありません。これは、ネタ自体や本人のキャラクター背景の厚みが増して、エクスキューズが必要なくなったからだと思いました。

 ダイアンのネタは、「寿司を知らない」という前提を崩すわけにはいかないタイプのネタとなっているので、「知らんわけないでしょう」という訂正が存在しません。だから、このネタがスムーズになるためには、育ちが海外とか、去年まで座敷牢で幽閉されてたとか、なんでもいいから一言あってほしかったなあと個人的に思うのでした。

 

 で、ジャルジャルなんですよ。

 このネタの場合、「かつて国名分けっこというゲームをしていた」という前提に対して「そんなわけないでしょ」という訂正が存在してないのに、僕にとってなんだか据わりがよくてゲラゲラ笑ってしまったのは、ご存知の通り、ジャルジャルがコントをメインにネタをやっており、漫才はM-1対策のためだけにここ数年で始めたものであることに通じていると思ったんですね。

 ジャルジャルのコントって、細かいネタであっても登場人物が「後藤」「福徳」ではない誰かの人格を設定しているんですけど、漫才では「後藤」「福徳」と名乗って、人格の統一を図っております。M-1に初めて決勝に出た際、この話者と現実の人格との距離感がコントよりも近く、図りづらいことについて「照れてどうしてよいかわからない」というような発言を聴いたことがあったし、実際初年度のネタってコントとしての漫才であったと記憶しています(内容は全く記憶してないが)。

 数年を経て、ジャルジャルの漫才は、「コント師として漫才をやる」っていう強みが生きた形で、「後藤」「福徳」を名乗りながら、実際の人格とは違うコント感を強く残しているので、「かつて国名分けっこというゲームをしていた」という設定に、適当などうでもよさを作り出せているような気がしたんですよね。実際に後藤と福徳は幼馴染で、子どもの頃「後藤が知らない遊びを福徳がしていた」という少し疑問があるような前提であっても、それほど興味を持続できないような作りになってると思った。

 僕がそう思っただけです。はい。

 そうするとやっぱり、ネタがすっと入ってきてすごく楽しかったんですよ。

 あと単純に、このネタが面白くなる確信ってどうやって持てたんでしょうね。ジャルジャルのネタって特にそういうものが集合してるけど、漫才でさらにこういうことやってて本当にすごいと思った。